サムスン電子は2019年世界半導体売上のデータによると業界第2位でした。

(ネトウヨが認めたくない感じのグラフ)

そんな世界のサムスングループの歴史をまとめてみました。

前回のサムスン社まとめ(2)の続きです。

サムスン電子の設立

創業者イ•ビョンチョルは密輸事件の責任を負い財界引退を宣言、長男を最高経営者に座らせた。が、すぐに新しい事業の構想をし始める。ビョンチョルは日本を頻繁に行き来しながら事業のアイデアを探した。そうして彼の目に入ったのが電子産業だった。正確な分析をするためサムスン物産開発部を通じ調査を実施した。その当時日本と台湾はすでに世界の電子技術を確保していて韓国はまだまだ遅れている状況だった。

現在のLG電子が1959年11月に韓国初のラジオを、1966年8月に韓国初の白黒テレビを造りその時代をリードしていた。その他の企業は海外から部品を輸入し組み立てるだけの水準だった。

イ•ビョンチョルは電子産業に進出すると決心。ゴルフクラブで会ったLG電子の創業者グ•インフェに「サムスンは電子産業に進出する」と話したそうだ。グ•インフェは俺と競争する気かとカッと腹を立て絶交状態に。しかし小学校以来の友人インフェと絶縁してもビョンチョルの決心は変わらなかった。

余談、LGのグ•インフェの三男が当時サムスンで働いていたらしいがこの絶交をきっかけに退社したという。

三洋電気に影響受ける

1968年イ•ビョンチョルは日本で大きな工場を持っていた三洋電気を見学、刺激を受けた。彼は三洋電気より大きな規模の工場を建てたいと考え韓国水原に45万坪、慶尚南道に70万坪、計115万坪の土地を購入した。

1969年1月サムスン電子工業株式会社を設立し経営者第一線に復帰する。

初期は三洋電気と協力する事業を進めようとしたが、他の電子会社が「国内産業推進のために止めてほしい」と反対。

サムスン電子は生産したテレビとラジオを全て輸出するという条件で三洋電気との合併事業の許可を受けた。

1969年12月サムスン電子50%、三洋電気40%、住友商事10%、投資金5,000万ドル規模のサムスン三洋電気が設立された。最初サムスン社製の物は不良品が多く長期赤字状態だったが次第に生産システムと技術が蓄積され、やがてサムスンは独自の技術で製品を開発し出す。

大当たり商品登場

1973年4月サムスン電子は最初の製作品を発表。19インチトランジスタ白黒テレビだった。その年からサムスンで製造された物が国内で販売可能になり売上が少しずつ増加。

1975年4月に発表した白黒イコノテレビは画期的に進化、従来品は電源を入れてから20秒ほどブラウン管の予熱時間がかかってしまっていたところイコノテレビは5秒のみで点いた。

イコノテレビは大ヒット。販売台数74万6,000台を記録。市場占有率を40.9%まで引き上げた。国内シェア1位になった。電子産業に基盤を固めたサムスンはこの時からLG電子と本格的に競争し始める。

後継者

サムスン電子創業者イ•ビョンチョルには三人の息子がいる。

左から長男、次男、三男。

長男次男は父親を助け、サムスン系列会社の経営を任されていた。ビョンチョルはサムスングループの後継者は長男に譲るつもりで近くに置き後継者教育してきたそうだ。しかし長男が最高経営を任されてから半年くらいでグループ全体が混乱し始めたという。

ビョンチョルは「失敗した経営人は犯罪者」という信念を持っていたため、長男はグループ経営するには不足という結論を下した。

次男は父親の復帰が気に入らなかったせいか、「密輸事件と脱税、外貨の不法搬出等サムスンの組織的な犯罪に父親ビョンチョルが直接関与した」という投書を書いた。父親さえいなければという考えがあったそうだ、恐ろしい。

この投書は当時陸軍中佐だったチョン•ドファンから大統領警護室長に伝わり、パク•チョンヒ大統領へ伝えられた。しかしパク•チョンヒは、

息子が父親を陥れて告発することは天の法則に反することだ。この事件は黙殺する。

大統領パク•チョンヒ

と指示したという。珍しく良いこと言うね。 結局この投書事件は何事もなく通り過ぎた。事件後計画に失敗した次男は米国に旅立つ。イ•ビョンチョルは長男がチョン•ドファンと仲が良かった為長男も共犯ではないかと考えたそうだ。

いずれにせよ長男次男は後継者から降ろされてしまう。ビョンチョルは「長男は経営に志が無く、次男は多く仕事したがらない。三男は遠慮したい姿勢だった。サムスングループの後継者は三男のゴンヒに決めたよ」と記録したという話がある。

イ•ビョンチョルと三男イ•ゴンヒ

イ•ビョンチョルは生前遺言状を作成していたそうだが亡くなった後遺言状が無くなり、相続関連の法廷攻防が繰り広げられた。この法廷対決には財界の関心が集中した。

次男はサムスングループを去り、米国に渡った後個人事業を始めた。ビデオテープ、オーディオテープ事業のセハンメディアを設立した。しかし次男は血液癌にかかり早くこの世を去り不運の王子と呼ばれた。

セハンメディアの商品
東レとセハンメディア合併発表時

三男イ•ゴンヒはどんな人?

1942年生まれのイ•ゴンヒは日本、米国へ留学経験があり学生時代は勉強よりスポーツ好きな青年だった。日本で活躍していたプロレスラー力道山の影響でレスリングを始め、全国大会で入賞もした。父親の影響でゴルフも始め、後に「審判のないゴルフは自主性を、野球はチームワーク、ラグビーには闘争心を学んだ」と語った。

米国ジョージワシントン大学経営学部大学院では経済学を専攻、副専攻はマスコミ学を学んだ。このマスコミ学副専攻は父親が会社のメディア系列を拡大したい考えで学ばせたらしい。しかし勉強があまり好きでなかったゴンヒは米国留学生活のほとんどを自動車趣味に費やした。自動車の構造に関心があり分解や組み立てをして自動車に詳しくなった。

1966年、ゴンヒは韓国に戻るとさっそく東洋放送に入社。中央マスコミ理事に任命された。

右から長男、次男、三男。

余談。ゴンヒが憧れたプロレスラー力道山

イ•ゴンヒが影響を受けレスリングを始めるきっかけになったプロレスラー、力道山についての韓国映画がある。面白いので興味あれば見てみてほしい。

2004年の映画。プロレスラー力道山が在日を隠しながら活躍する映画。

サムスン社まとめ(3)、了。

続きはまた近いうちに書きます^^

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