韓国を代表するグループ•サムスン、現在は世界のサムスンと言っても過言ではないグループになりました。

前回の続きですが、今回は密輸事件と初の民間放送局などをまとめてみました。

第一製糖。輸入品依存から国産へ。

1953年、朝鮮戦争が休戦になると貿易業に参入する会社が増え競争が激化した。サムスン創業者のイ•ビョンチョルは製造業に進出するには良い時期と考え、砂糖を製造する「第一製糖」を設立。当時韓国では砂糖は輸入のみに頼り、米国からの砂糖は精製されていない物が混じっている上に値段も高かった。

日本の田中機械(現在の田中機械工業?)から製糖機械を取り寄せた。

輸入品よりも安く質の良い砂糖を販売したが最初は「国産は安いが質が悪い」というイメージがあり売れなかった。

しばらく後に売れ出し、輸入品は減少、輸入代替という目標を達成した。

第一製糖で作る砂糖ブランドが「白雪印」だ。第一製糖は1993年サムスングループから分離した後、現在のCJ第一製糖になった。

第一毛織。こちらも輸入品依存から国産へ。

サムスン物産は製糖会社も成功させ、この時創業者のイ•ビョンチョルは一つ一つ起こす喜びを感じたと語る。ビョンチョルは次の構想は「衣食住」の「衣」だと考え、1954年「第一毛織工業株式会社」を設立。

当時韓国の国内繊維産業は劣悪で軍用毛布程度の製品の生産くらいしかできなかったという。

生産原価を下げながら品質の良い製品を作るために大規模な最新式の当時最大の工場を建設した。政府の薦めで日本の機械ではなく西ドイツ製の機械を取り寄せた。

職員をイギリス•フランス•ドイツ•イタリアに送り、加工•染め•紡織•機械の関連技術を勉強させた。第一毛織はやがて生産を開始、その時作られたブランドが「ゴールデンテックス」だ。

当時ゴールデンテックス広告

英国製品ほど立派ではなかったが当時国内では最高で輸入品より安価だった。第一毛織ソウル支社1階には直営店を作り販売もした。初期は大赤字だったが徐々に国民の心をとらえた。

第一毛織の成功後毛織工業が次々に出始めて国内で生産した物で自給可能になると政府は毛糸輸入を禁止した。

第一毛織が成功した後からイ•ビョンチョルは財閥と呼ばれ始めた。

不正貯蓄者

1956年イ•スンマン政府は銀行の民営化を推進。財閥が銀行を所有し、サムスンもいくつかの銀行を掌握することになる。様々な企業の株式も購買した。

1961年5月、経済人11名が不正蓄財嫌疑で拘束された。その名簿の一番上がイ•ビョンチョルだった。

ビョンチョルを含めた27企業の持ち主に378億800万ファン(ファン=ウォンの10分の1貨幣単位)という追徴金を徴収、その内サムスンは103億400万ファン、全体の27%を支払った。

その時ビョンチョルは当時国家再建最高会の副議長パク•チョンヒに「現在の税法は戦時の税法のままだ。税率そのままに払えば運営は不可能」というようなことを言い悔しさを表した。

そして罰金を納める代わりに起業家に投資するから国家に助けになる機会をくれと要請。言ってみるものでビョンチョルの願いは投資命令という法令として施行された。

1946年な日本で経団連が出来たが、1961年に韓国の経団連、韓国経済人協会を設立した。現在の全国経済人連合会だ。

韓国肥料

イ•ビョンチョルは農業の生産性を高めるため肥料が必要だと思い、肥料工場建設を考えていたが政治的混乱で進められずにいた。当時韓国の肥料は全て輸入に依存していた。

1963年10月パク•チョンヒが大統領に当選。政府が積極的に支援するから肥料工場をつくって欲しいと言われた。ビョンチョルは韓国肥料工業株式会社を設立。

パク•チョンヒ大統領と イ•ビョンチョル

大規模な肥料工場を建て始めた。その当時、日本では1年に18万トンを生産する肥料工場が、旧ソ連では年に30万トンを生産する肥料工場を計画しており、それより大きな工場建設を決意。年間33万トンの肥料工場建設に着工し始め、ある程度進んだ時期に新聞を通じ一つの事件が明らかになる。

密輸事件

1966年、韓国肥料工場の建設のため日本の三井物産から建築材料を持ち込む過程で、55トンの大量のサッカリンと日本の家電製品を大量に密輸入していたことが明らかになった。これを転売し莫大な利益を得て、韓日両国の政治家たちと分け合ったという。

イ•ビョンチョルは転売利益の自社の持分約50%を国に寄付し財界引退を記者会見で宣言した。

後にビョンチョルの長男は晩年の回顧録で「密輸事件は自分の現場の指揮。パク•チョンヒ政府とサムスンが共謀した組織的な密輸」と告白した。

1966年9月、この密輸事件の影響で国会本会議で密輸事件に関する発言途中、憤慨したキム•ドゥハン議員が国務委員席に汚物を撒き散らす事件が起きた。

初の民間放送誕生

不正蓄財者という烙印を押され、密輸事件にも関わったイ•ビョンチョルは「力の限界を感じた」とこの当時を語る。それで「政治家になろうか」と考えたりもしたが、言論をつくることを決意。1964年5月東洋テレビジョン放送を開局。

これが韓国最初のTV民間放送だ。

ソウルに10階建ての中央マスコミセンターを建てた後、新聞社の記者をスカウトして新しい新聞社を設立した。それが中央日報だ。

そしてラジオ、テレビを統合し東洋放送•TBCを開局した。が、1979年12月チョン•ドファン政府はTBC放送を強制的に奪い、KBS放送に吸収させるマスコミ統廃合を推し進めTBC放送はお別れ放送を最後に歴史の中に消えた。中央日報新聞社だけが生き延びたが、1999年サムスンから分離した。

中央日報のビル。

サムスン社まとめ(2)了。

続きはまたそのうち書きます^^

最後までお読みいただきありがとうございます^^