日本でも知られ歴史のある韓国を代表するグループ、サムスン。

その創業者と黎明期をまとめてみました。

創業者イ•ビョンチョル。恵まれた家庭と周囲。

1910年2月12日(陰暦)慶尚南道ウィリョン郡。とても広い農地と570坪の敷地に母屋、離れ二つの豪邸に住む家族に男の子が誕生する。この子が後にサムスングループ初代会長のイ•ビョンチョルだ。ビョンチョルは幼い頃から裕福な生活をしていた。

↑ビョンチョルの生家は”金持ちの運気が流れる”として観光地になっている。風水としても良い立地にあるそうだ。

12歳から故郷を離れ慶尚南道晋州市に新設されたジス普通学校(現在 ジス小学校)の3年に編入した。この学校は、GSの創業者ホ•マンジョンの父親が土地を寄贈し建てられた学校だった。学校のクラスメイトにはグ•インフェ(LGの創業者)が通っていた

ビョンチョルは17歳で結婚。その後日本へ留学したいと考え、父親に留学費用を相談した。しかし叱られ費用をもらえず、兄の友人が代わりに留学費用を快く出してくれた。兄の友人とは大地主の息子でヒョソン(社名)の創業者チョ•ホンジェだった。

↑クラスメイトの生家、留学費用を出した兄の友人の生家も金運アップ?の名家観光地になっている。

現在の早稲田大学に当たる学校へ留学したビョンチョルだが、日本で脚気(カッケ)病にかかってしまった彼は故郷に帰ることになり結局留学先の学校を中退してしまう。彼は後に自身の自伝で「早稲田を中退した。中東中学校に続く4度目の中退。僕には卒業証書が1枚もない。」と語っている。

しかし彼は留学中のあいた時間を使って東京の工場を見て歩き、多くの事を学んだそうだ。「当時東京は世界の中心の一つだったから世界をそこで見たんだよ」と自伝に書き残している。

学業はいまひとつなイ•ビョンチョルだったが商才だけはぶっちぎりにあったようだ。

事業の始まり。覚醒。

日本留学を失敗したビョンチョルは学業を諦め、悪友たちと骨牌(コッパイ=麻雀の数字牌のみを使う遊び)という賭博に夢中になっていく。

毎日のように骨牌に明け暮れていたビョンチョルだったが、1934年深夜に帰宅したある晩、自分の子供たちが可愛らしく寝ている姿を見てハッとし「このように暮らしていてはだめだ、しっかりしなくては」と反省し、その晩は考えこんでしまい寝付けなかったという。そして事業をやると決心する。

数日後ビョンチョルは父親を訪ねて事業をすると伝えに行く。その時父親は「自分で納得のいく仕事ならば良い決断だ」と言って、300石(1石=100升=1000合)の米を収穫できる財産を事業の資金として出してくれた。

(留学費用を出してくれなかった父親が新事業にはOKしたのはビョンチョルの才能を見抜いていたからなのか?)

事業の資金ができたビョンチョルは韓国全土に直接足を運んで事業案を懸命に探した。

当時運送手段が不足し送料が高かったことに目をつけトラック10台を保有していた自動車会社を買い取り運送業を始めた。また精米所が不足していたため精米所も作った。初事業は見事に成功。運送業で稼いだ収益と銀行からの融資を足して金海平野を買取る勢いでたった1年で200万坪の大地主になった。年間一万石の米を収穫し事業を成長させた。

この頃日本が中国を侵略する日中戦争が発生、戦争が始まると土地の価格は急暴落、銀行は貸出しを中断、ビョンチョルは破産してしまった。

三星(サムスン)商会と三星物産公社

運送業で成功をおさめたが一夜にして潰れた事業。しかし彼には強い味方である父親がいた。再び父親は大金を息子に渡し新事業に期待する。ビョンチョルは新事業を始める前に朝鮮半島を巡り、中国大陸まで広く旅して事業案を探した。そうして中国で大規模に商取引が行われていた事実を知り、青果と干物が輸出に向いてることに気付き貿易事業を始める。会社名は三星商会と付けた。

以前会社を潰した経験のある彼は貿易のみに依存するのは危険があると判断し、製粉機と製麺機を買い製造業も始めた。この時作った麺が星印麺だ。

↑歴史のある麺ブランドになっている。

三星商会は順調に成長。余裕が出てきたビョンチョルは他の事業をまた考え始める。それは醸造所だ。

日本人が経営していた酒造会社が売りに出した「朝鮮醸造」という会社を買い取り引き受けた。

その当時日中戦争が長期化し経済低迷に影響を与えて、全てが難しい状況で酒類はよく売れていた。月桂冠という商標を付け飛ぶように売れた清酒を作った。

月桂冠も有名なブランドだ。

1941年12月、真珠湾攻撃が起こったことで太平洋戦争が始まった。この時期から三星商会も生産量の95%を日本の軍需物資として納品しなければならなかった。

そんな中、1942年1月ビョンチョル夫婦の間に7番目の息子が産まれる。この子がサムスングループ2代目会長イ•ゴンヒだ。

その後ビョンチョルは稼いだお金で国際貿易をすると決意、三星物産公社を設立した。この三星物産公社の設立時の資本金出資額を、ビョンチョルが言うには75%を自身が出し、25%を投資家がだしたと言うが、不仲説のある友人チョ•ヒョンジェの話では70%をチョヒョンジェが出し、ビョンチョルは30%と語る。どちらが本当かわからない。

ちなみにこの三星物産公社では社員ならば誰でも会社に投資でき、投資した分の配当を受けとっていたそうだ。

三星物産公社は順調に成長、他の貿易会社に追いつきトップの貿易会社になっていった。

しかしその後朝鮮戦争が起こり、三星物産公社が成し遂げた全ては崩壊する。ビョンチョルは朝鮮醸造へ向かう。醸造所は安定しており、そこの備蓄で再び事業をおこす。

釜山で三星物産株式会社を設立。三星物産公社時代に香港から回収していなかったお金も手にいれ余裕のある資金で再び事業を始めることができた。主に砂糖と肥料を輸入し販売した。

60億ウォンの売上を達成、純利益は20億ウォンに達した。これは数字上は大きな額であるが当時の戦争の影響で通貨乱発と物価上昇が繰り返される悪性インフレーション状態で、ビョンチョルはこれについてをわかっていたため達成した数字に浮かれず恐怖心を持っていたという。

そして朝鮮戦争は中断になり、イ•ビョンチョルは第一製糖と第一毛織という会社を建てる。

サムスン創業者と黎明期、了。そのうちまたサムスン続編まとめます。

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