零戦の機体を運搬したのは時代遅れの牛車だった…という話しを前に書きましたがその運搬手段に関する事件をお話しします。

中部地域の工業

昭和12(1937)年は中部工業の転換点になりました。この年にトヨタ自動車工業(株)が発足しました。

川崎重工業の飛行機部門は各務原飛行場に進出しました。

三菱名古屋航空機製作所、愛知時計電機は、戦闘機、爆撃機、艦上攻撃機などの生産を急ピッチで進めていました。

12試艦上戦闘機後の開発が決まりました。これは3年後の紀元2600年制式戦闘機となり、ゼロ戦と呼ばれるようになりました。

牛車で機体運搬

当時三菱の機体運搬は牛車でした。鉄道車両は狭く機体が入らず、直通でないため時間もかかり、鉄道爆撃の恐れもあり機体運送をあきらめ、トラック運搬も試みましたが砂利道ではリベットが緩んでしまうという理由で止めてしまいました。河川運搬も試みましたが時間と労力がかかり駄目だったのです。

そんなわけで名古屋の工場から各務原へ機体運搬は牛車が最適となり戦時中も続けることになりました。

距離は48km。のろのろ牛でも休みなく移動すれば24時間で到着することができました。実際には名古屋(大江)を午後8時に2~4頭牛曳きで30両、隊列を組み、小田原提灯を灯りに出発しました。当時の道路は狭いので軒下すれすれに粛々と警官たちに守られながら運搬しました。途中で昼間休憩、翌々日の早朝6時現地飛行場到着、作業員が一斉に荷下ろしをしたといいます。

これではあまりに遅い、1日短縮できないかと考え、候補に上がったのが東北地方で飼われていた大型馬でした。馬ならもっと速い時速4kmで行ければ12時間、途中休憩時間を考慮しても翌日には到着できる、このように考えました。

三菱の運搬責任者は岩手県へ出向き、警察に挨拶し、岩崎家所有の東山牧場の人たちと馬の買い付けについて相談しました。「私共はお国のためにしています、ちゃんとお金を払います、決して生産者の農家に損をさせません」と伝えました。

しかしそれが後に罪の始まりになるとは誰も想像していなかったのです….. 続く。

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発行元: 名古屋航空技術http://www.jade.dti.ne.jp/~nat