兵器と聞くと悪いイメージを持つ人も少なくないと思います。しかし中部地区では飛行機や兵器を最初に造り、その技術を引き継いで自動車を造り始めました。その意味では兵器は航空•宇宙、自動車産業の原点になったと筆者は評価しています。

航空機と自動車は縁がなさそうですが、これが意外につながっています。

航空機技術者は自動車ぐらいはできると言い、自動車技術者は世界に売れる航空機をいずれ作ってやると豪語しています。

過去に航空機メーカーは自動車製造に挑戦し、自動車メーカーは航空機製造に挑戦しました。それぞれうまくいったと、言い難いですが共通の技術が存在することは事実です。

自動車製造といえば、世界のトヨタを思い浮かべます。初代社長の豊田喜一郎氏は自動織機完成後は自動車を作り、その後で飛行機を作ると述べたそうです。これは父親、豊田佐吉氏の夢でもあったそうです。

時は大正時代にさかのぼります。

大正4(1915)年、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)が自動車を作りました。

4人乗り無蓋の乗用車でした。これは試作に終わったようですが、同校卒業生が就職し、航空機や自動車産業発展に大きく貢献しました。

大正6(1917)年、名古屋高等工業学校の南に位置する名古屋兵器製作所が4トントラック製造に挑戦しました。これは中国青島のドイツ軍から獲得した軍用トラックを見本にそのまま製造したものでした。

当時としては大型自動車で、東海道周辺(当時は名古屋市ではなかった)を利用して試運転を繰り返しました。橋の強度に不安があり特別に大きな板を敷き通過したそうです。調子が良かったのでちょっと冒険と知多半島の方へ足を延ばしました^^。当時の道は貧弱で熱田村(現在の熱田区)を出れば農道ばかり、4トントラックは道一杯に占領し、心細く走った様は滑稽でもありました。すぐに問題に気付きました。Uターンできなかったのです。同乗者一同大いにパニックになりましたが幸い広い場所が見つかりなんとかUターンし、エンジンがストップすることもなく無事に戻ったということがあったそうです^^; このトラックは大正が終わるまでに45台製造されました。

昭和になって当時の大岩名古屋市長が「中京デトロイト構想」を提案しました。

統計によれば昭和初期名古屋市内の車は90%以上がフォードなどの米国製でした。大岩市長は米国の世界最大の自動車工業地帯デトロイトを強く意識し、将来日本もそうなればと夢を語りました。

昭和6年、市長の呼びかけに呼応して本格的な乗用車製造を開始しました。製造中心になったのは、名古屋兵器製作所の南にある日本車両でした。その他に愛知時計電機、豊田式織機(後の豊和工業、豊田佐吉の自動織機を製造)が協力しました。昭和7年に完成しましたが、コスト高になり試作のみに終わりました。同じころ豊田喜一郎氏は自動車エンジン研究に着手し、周囲の反対を押し切って自動車製造に邁進しました。昭和10年、乗用車試作第1号完成、現在の世界のトヨタ黎明期でした。

余談ですが豊田佐吉氏の自動織機工場が一時期、名古屋兵器製作所の西にあり、その関係でしょうか日本車両に自動織機の一部を外注したことがありました。あの辺りの名古屋の会社は皆つながっているのかもしれません。

中部地区の自動車や航空機産業の歴史をさかのぼると名古屋兵器製作所周辺からはじまっていることがわかります。その兵器工場跡地はほとんど公園になり、平和産業?が中心だった日本車両や日本ガイシが今も存続しています^^

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発行元:名古屋航空技術 http://www.jade.dti.ne.jp/~nat