日本最初の兵器工場(1)の続きです。

ロケット「イトカワ」

小惑星のイトカワはロケットの父、糸川英夫教授にちなんで名付けられました。

同教授は東大工学部を1935年卒業後、中島飛行機に就職し、隼戦闘機や鐘馗戦闘機開発に従事しました。戦時中は東大工学部准教授になりました。

1943年、軍から滑空爆弾(一種のミサイル)開発の命令を受けました。その製造元が名古屋兵器製作所でした。

現在もそのまま残る、名古屋兵器製作所

同所東南側に隣接して中島飛行機分工場があり、ミサイルの一部はこの工場で製造されたものと思われます。

糸川氏中心に開発されたミサイルは胴体直径はドラム缶ほどで500mm、長さは2500mmでした。長さについては5mほどあったといわれてます。

敵機の熱を感知して、胴体に取り付けた動翼を動かし、誘導するものでした。熱感知のセンサは当初、熱電対でした。これは異種電線の組み合わせが熱を感知して、起電圧が生ずる原理を利用して、温度を計測するもので今でも温度計として利用されております。

軍から依頼され糸川氏を中心に開発されたミサイルの絵。

しかしこの熱電対は感知力が鈍くミサイルセンサとして使い物にならないことがわかりました。その後赤外線を感知するものにかわりました。

糸川博士の計算によれば、これで誘導できるはずでした。しかしいざ飛ばしてみると不安定飛翔でした。飛行制御安定に必要なジャイロがなかったことが致命的欠陥でした。

結局実用化される前に終戦になってしまいました。

糸川博士の解析技術力にしてみればジャイロが必要と認識していたと思いますが、まだ日本では当時のジャイロ製造技術がなかったというのが実情だったと思われます。

終戦後の糸川氏

終戦直後、糸川准教授は教授になりロケット開発に執念を燃やすことになります。

当時米国では、長期保存が必要なミサイルは固体ロケットで、長期保存の必要がない宇宙開発人工衛星には液体ロケットを使う前提で開発を進めていました。

当然糸川教授は液体ロケットが将来有望と考えたと思われます。

当時液体ロケットエンジンの技術を持った三菱造船所(後の三菱重工業)へ共同開発を持ちかけました。1950年ごろでした。当時三菱重工で対応しましたのがロケット戦闘機エンジン部を担当していた平岡氏でした。同氏は、まだロケットエンジン開発は時期尚早と糸川教授の申し出を断りました。

後に平岡氏は液体ロケットエンジンを開発し、その後配下の技術者は名古屋転勤となり、H-1、H-2液体ロケット開発に尽力しました。

糸川教授は液体ロケットエンジンはあきらめ、日産と固体ロケット開発に進み、ペンシルロケットからスタートして、ラムダロケットなど固体ロケットで人工衛星を打ち上げました。

三菱の平岡氏が断らずに糸川教授と共同開発していたら…..今の宇宙開発は少し違ったものになっていたかもしれません。^^